エッセイ

苦しみに耐えて咲く人生の花なのか

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10年くらい前、よく山口県へ出張していた。取引先の拠点があったからだ。

仕事上悩んでいたというか、文字通り、全く先が見えない日々を過ごしていた。

1年には365日という日数があって、今がその何日目なのか、あと何日でこの日々が終わるのかというのをよく数えていた記憶がある。本当に細かく、例えば今日は153日目だなとか数えていた。

その頃も、野球の言葉で例えることで少し気分を紛らわせていたところがあって、

4人で守るべき内野を3人で守っているなとよく感じていた。

僕は正直なところ、守るべきものが何かすらわからない状態で守備についていた。

守るべきものなど、正直何もなかったとも思う。

ただ、自分に向けて放たれる打球に手を伸ばしては、何一つ捕ることができずにいた。

10年前をこのタイミングでよく思い出すのは、単純に10年という一区切りを感じるからか、

その時点の僕からは、何か遠くに来た気持ちでいるからなのか、正直よくわかっていない。

10年前の2月の出張終わりに、山口県下松市の、とあるお寿司屋さんに1人で入った。

お寿司の味は覚えていないけれど、1つの言葉が今も胸に残る。

店頭に『苦しみに耐えて咲く人生の花』という下松市長からの色紙が飾られていた。

涙は出なかったけれど、帰りに色紙を写真に撮った。その時に、自分は苦しい状況なのだと心の底から理解した。

苦しみになど、耐える必要はない。そう言ってくれる人がその時、会社にいた。

いい時も、そうじゃない時もあるけれど、そういうものだ、いつも見ているぞというメールをくれる人がいた。

なぜ、それから10年後の今も働いているかと言えば、きれいごとのようだけれど、そういう言葉に救われたということに尽きる。いつか、言葉もそうだけれど、何かで返せるようになりたいと思った。

あれから10年が経って、苦しみに耐える必要はないと今も思う。

たまに若い時にそういう経験をしたからこそ、今があるという文脈で語る人がいるけれど、そうは思えない。

何かにつながる、いつか花が咲くと思って、そういう経験をする必要もない。

ただ、一足飛びに10年という月日をタイムスリップして、今この場所に来ることができるわけでもない。

あの日々をどうにかこうにか過ぎ去って、1日1日を数えて、そして、いつしか数える必要がなくなったけれど、その積み重ねで今に至る。

今を肯定するわけではないけれど、それは振り返れば不思議だなとも思う。

そして、今も、僕は三遊間に転がる打球を追いかけている。

幸い内野には4人いる。

たまに打球を追いかけず、俯瞰して内外野を見ているときもある。

誰かが苦しいのであれば、球を追うなんてことをせず、その守備体系自体がおかしいのだと声を上げるし、

自分が手を伸ばしてそれを解決できるのであれば、そうするだけのことだ。

それが10年という時間で行きつく先の姿だったと思う。

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