スープの冷めない距離というのは、どのくらいの距離のことを言うのだろう。もちろんこの表現は、比喩だけれど、最近知り合いになった日本人たちは、文字通り、そのくらいの距離に住んでいる。
NYのUpper East Sideには、僕のような駐在員や、こちらでローカルの職員として働いている人、医療研究者、大学院に通う人など、様々な日本人が住んでいる。
Manhattanの賃料は高騰を続け、足元では少し落ち着きが見られるものの、住めるエリアも限定的になっていて、Jersy CityやBrooklynに住む人たちもいる。
スープが冷めない距離に、友人や知り合いが住んでいるというのは、僕の東京の生活では、しばらくご無沙汰していた感覚だった。
思い返せば、幼い頃の友人は、近くの公園で出逢って、親同士もお互いの家を行き来して、仲を深めあっていた。大学の頃も、東京に出てきた友人たちは、大学キャンパスの近くに住み、よく誰かの家にあがりこんで、夜を明かして飲んだ。
お子さんがいる家庭は、家族同士の付き合いがあるのかもしれないが、僕の場合、知っている人が近くに住んでいて、家を行き来するということをいつかを境にしなくなっていた。いや、明確な境はないかもしれない。
東京は、少しそういうところがあると思う。同じマンションに住んでいても、コミュニティを形成するわけではなく、知らない人には、極力話しかけない。見知らぬ誰かが怖い人である確率は、確実にNYのほうが高いのに、それより安全な東京では、内にこもる傾向が強いのも、不思議な気がしてきている。
家に呼んだり、呼ばれたりする関係は、何か特別なものである気がしていたけれど、本当はそういうことでもないのかもしれない。単純に、家が近くて、「ま、ちょっと家で飲もうか」という軽い形で誘い合って、その人の家に行くと、なんとなく生活感や人となりが、わかってきて、信頼感が出てくるという方が自然なのかもしれない。
先日、自宅でちょっとした食事会を開いたときに、近くに住む夫婦が、家でご飯を炊いていてくれて、途中で炊いていたご飯を取りに戻って、炊飯器ごと持ってきてくれた。
スープが冷めない距離かどうかはわからないけど、炊飯器の中のご飯はあたたかかった。なんだか、いつも以上にあたたかさを感じたご飯だった。
街に暮らすというのはこういうことなのかなと、また思い知らされた。