
日本に帰ってきて、観たいな、観れてよかったなと思ったものは歌舞伎だ。
NYで国宝の映画を観た時に自分の中で感じた違和感は何だったのか、それも気になっていた。
実は帰ってきて矢継ぎ早に、さよなら松竹座公演、尾上辰之助襲名公演に行くチャンスに恵まれ、歌舞伎を久しぶりに味わった。
その合間で、シネマ歌舞伎で曽根崎心中も観てみた。
逆説的だけれど、シネマ歌舞伎の曽根崎心中を観て、歌舞伎というものの立体感に気づいた。
歌舞伎は役者だけではなく、長唄・三味線の語りや舞台裏で音響や舞台装置を準備している人それぞれに型があることで成り立っているように感じる。
歌舞伎を語るほどに見ていないけれど、役者にフォーカスが当たりながら、長唄の語りにも耳を傾け、絶妙な間で打つ木がうたれるのを聞く。それが観ている者の感覚であり、何かが強くフォーカスをあたりすぎたり、均等に音が聞こえたりというものは、歌舞伎のリアル感を損なってしまうように感じる。
これが、国宝を観た時の「なんだか、違うものを観た」という感覚の正体だったように感じる。良い悪いは別として。
日本で歌舞伎を観て、松竹座のサヨナラ公演や襲名公演でもあったからか、型を受け継いでいく意思を感じた。
少し話は飛ぶようだけれど、江川卓が中村勘三郎の言葉を借りて岡本和真にこんな言葉を贈っていたのを、歌舞伎を観るたびに思い出してしまう。
型があるから型破り、型がなければ形なし。
自分なりの型を作ると意気込んで形なしにならぬように、まずは基礎から。