エッセイ

観る眼を養う

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前回の続きのような形で書きたい。

実は前回、なんとなく書きたいことを書ききれず終わった感があったので。

世界史を改めて学びたい、振り返りたいと思ったのには2つのきっかけがある。

1つは、昨年とある会食のためにNYのロシアレストランにお招きいただいた際に、必然的にロシアの歴史の話になった。

会の主催者が18~19世紀後半のロシアの物語が好きなんですよねと言う。

僕は、日露戦争の前の時までという感じですねとそれに反応したが、いや日露戦争に突っ込む感じではないのだと反応された。

ロシアレストランで、日本起点に考える僕の視点も変だなと自分で感じ、やはり世界史の中のロシアの動きを観なくてはと思わされた。

もう1点は美術館を訪れる中で感じたこと。

絵として印象派の絵がとても好きだというのは前に書いたかもしれないが、その人たちがどういう時代背景や個人的な心情で絵を描いていたか、知ることで絵の観方が深まると思うに至った。

日本で歌舞伎や落語を聴いて面白いのは、江戸時代や明治時代、もしかしたら大正や昭和の時代背景も含まれるかもしれないけれど、それらと今との違いを背景として知っているからだろうと思う。この際、「知っている」という深さはそれほど深くなくてもいいと思う。むしろ、にわとりたまごの議論ではないけれど、歌舞伎や落語に触れることで過去の時代を理解するということがあってもいいのだろうと思う。

全く同じことが美術にも言える。

美術館を訪れているだけでは、絵を知ったことにはならず、その背景に想いを馳せて学んでこそ、絵が観えてくる。

これは、野球のようなスポーツも同じだなと感じる。試合を数多く観に行っている方々は、ここが試合を左右するポイントだというのがわかるようになるのではないか。

僕は自らの世界史やら野球やらの知識や見識をひけらかしたくて、ここにこう書いたり、どこかに行ったりしているわけではない。

ただ、少しはそういう面もあるのかもしれない、ただ、それが主な目的ではない。

やはり、物事を観る眼によって、世界は変わって見える。単に色々なものを見ても感じる側の眼が濁っていれば、観えたことにはならない。

観る眼を養いたい。

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