早く行きたければひとりで行け、遠くまで行きたければみんなで行けという言葉がある。
なんだか、後の句の言葉である「遠くまで行きたければ」が肯定的に捉えられるように感じる言葉だ。
でも、前半の「早く行きたければ」が否定されているわけではない。早く行きたければ、ひとりで行け。僕はこの言葉が好きである。
思えば、少年野球をやっていた頃だけれど、誰一人知らないチームに入り、最初の練習でキャッチボールを誰としようか、皆の輪の中にどうやって入っていこうかと不安に感じたのを覚えている。
結局はキャッチボールをしようと言ってくれる人がいて救われた。
これも子供のころ、スキーによく行って、福島の現地の子に交じったチームに入った。ヘルメットと曲がったストックを持つ子たちに、東京育ちの僕は到底かなわなかった。文字通りついていけなかった。
一人っ子だから結局のところ、ひとりでどうにかしないといけないという理由で、親はよく、見知らぬコミュニティにひとりだけで突入させる経験を意識的にさせていたように感じる。
そんなわけで、僕は今でもひとりで突入する場面を全く厭わない。
よく、ひとに誘われた会で、「誰々は行くの?」と主催者に尋ねる人がいるが、僕はほとんどそういうことをしたことがない。誘ってくれた人がいて、僕がそれに行くということだけで十分だ。
たまに、誘ってくれた人がドタキャンして、だれも知らない中で過ごすことになるけれど、それはそれで楽しめる。
最近、結婚式に行く機会が減ったけれど、結婚式に自分以外の誰が招かれているかも尋ねたことがない。ま、大体は想像できるけれど。
結婚式は安心できる。必ず、誘ってくれた人は壇上にいるからだ。ドタキャンということはない。
NYでも色々なコミュニティの会に参加する機会がある。日本人の会もあれば、NYの現地の人たちの会もある。その時に、誘ってくれるその1人しか知らないことも、よくある。でも、繰り返しだけれど、その人が誘おうと思ってくれて、僕がそこに行けば他のことは些細なことだ。その場にいる人たちと付き合おうと思うこともあるし、そうではないこともある。
思えば大学や会社といったコミュニティも、別に誰かが行っているから行ったわけでもなく、正直、誰も知らない中に飛び込んでいくことこそが、楽しいと思っている。むしろ、自分がその一員としてそのコミュニティを創るくらいの気概を持ちたいと思っている。
だから、早く行きたければ一人で行け。誰かと調整している時間はなく、迷っている時間もない。行けばそれで何かがわかる。遠くまで行けなくてもそれはそれでいいのではないか。