エッセイ

ひたすら走る

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

8月下旬から9月中旬にかけて、本当に色々な都市を周って、いくつか目標にしていたことも達成した。

正直、詰め込みすぎはよくなくて、これだと咀嚼しきれないな、

もう少し一つ一つを噛み締めて味わうべきだなとかなんとか、思っていたら、

ちょっと体調も崩して、結果的に一休みした。

季節は過ぎ去って、気づいたら秋になっていたというのが、今の偽りのない感覚。

そんな10月のはじめ。

10月になるとやっぱり、小学校の頃の運動会を思い出す。

キリスト教の学校に通ったから、運動会には必ず、聖書の言葉が読まれた。毎年、同じ言葉が繰り返される。

「後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾け、(中略)目標に向かってひたすら走る」

運動会はある意味単純で、優勝したいと強く思っていた。

今は誰も目標を定めてはくれないので、自分で勝手に定めてそれに向かって走る。

目標を決めるといいなと思うのは、それに向かって否応なく生きるので、生きることが惰性的にならない。

よく、「そんな目標に意味があるのか」、「何のためにそれに向かって走っているのか?」と疑心暗鬼になる人に出逢うけれど、僕は自分で定めた目標の意義を考えることはしない。

「ただやってみたいと思ったから」という理由だけで充分だと思っている。

やれるかやれないかも、走り始める前にあまり考える必要もないと思う。

走りながら、そういうことを考えてもいいけれど、考えることすら無駄だ。それが「ひたすら走る」という言葉の意味だと思っている。ただ走るのではなく、ひたすら走る。この言葉が好きだ。

できない言い訳や、そもそもの走る意義を考えて、何か意味があるのだろうか。あえて言えば、ひたすら走るときに、どうやって走るか、走るペースや姿勢は大事にしたい。

姿勢も、この言葉が教えてくれている。「前のものに全身を傾ける」そんな姿勢がいい。

目標を達成して、「満足するな」という言葉もたまに聞くけれど、僕はいちいち振り返って満足したい。

とどのつまり、何かに向かってひたすら走ったら、達成した後の振り返りくらいしか楽しみがなくはないか。

そんなに仰々しい目標でなくてもいいし、最近は、走るのではなく歩いてもいいとも思う。

みんな違うペースで走ったり歩いたりするし、目的地は一緒ではないと気づいた。

不思議なことに、自分で決めた目標を達成したら、少し満足した後で、また違う何かが出てくる。

そして、自分だけの目標に向かって走っているだけというのも、何となく味気ない気がしてきている。

どういうことが味気ないのか、どうしたら味気が出てくるのか、

秋だから、夜長にそんなことを考えている。そんなわけで写真には考える人を添えて。

なんとなく、答えが見えそうな気もしている。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

*