年の瀬も迫る中、12月は我が家にも来訪者が多く来て、それぞれにNYを楽しんでいったように感じる。
思えば、誰かをもてなすという行為をし始めたのは、こちらに来てからで、人をもてなしたいという気持ちが僕の中にあるのだと気づいた。
母のレシピを再現しようとしても、どこか違い、それでも料理は、何を作らなければいけないという使命感がなく、自由にできて好きだ。単純にみんなの喜ぶ顔が見たいという想いもある。
NYに何か明確な目標を持ってきたわけではない。日々を過ごすうちに、こうありたいというものが出てくるもので、それに身を任せている。
先日、San Franciscoに出張したときに、僕は不動産や街にある坂ばかり見ていたけれど、一緒に行った先輩は、以前海運会社を担当していたということもあり、船ばかりを見ていた。
見えている景色が違うんだなと笑いあった。
この角度から、あの船が見えますかねというくらい、目に映る船の姿は遠くて小さかったけれど、なんとなく、そのちょっとした会話を通じて、こうありたいという姿に対する気づきがあった。船が仮に目線に入っていたとしても、それに興味を持たず、船のことを知らなければ、ただ見過ごすだけなのだ。
NYに来た友人たちは、待ちゆく人たちのファッションや、ペイントに目線を持って行っていた。僕が日常、暮らしている中では、気づかない模様やデザイン、帽子と服の色の合わせ方。
人それぞれという言葉をよく使うけれど、見えているものも人それぞれ。目線の先にあるものは、一つではない。
同じ街で過ごしていても、人によって、見えているものが違う。
あれもこれも、目線を広げることはできないだろうけれど、
今見えているものをより深く、澄み渡るような色合いで見てみたい。
あと、一人の目で見える世界は、やっぱり限られていて、一人よりは複数の目で見た方が、(目はそもそも複数を前提にしているものだけれど、)見えた世界を共有しあえる。
変化の大きかった2022年を経て、とりとめのない文章のようだけれど、やりたいことは例年になく、はっきり目線にとらえられてきた2023年に期待している。